「玉川公園は晩翠園と称し、丹羽村の中央に在り、小金山は背後に峻立し、南方は一面の田畑にして利別川は東西に流れ、遊楽部岳及び太櫓岳は遠く雲際に聳え、地籍7万4千88坪を有し......」と丹羽五郎が著述の「我が丹羽村の経営」の中で述べられている。 丹羽五郎が玉川公園を「晩翠園」と雅号を付した「晩翠」の2文字には「冬枯れの時、なお草木の緑色である」と言った意のみばかりでなく、五郎が理想郷丹羽村建設と言った壮大な夢や将来ビジョンに賭ける想い、情念が込められていたのである。 往時は玉川神社のほか、神楽田、観望楼、競馬場、相撲土俵があり樹緑、緑草は見事であったといわれている。
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