丹羽五郎「ゆかりの名所・古跡・景勝」

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 丹羽五郎の
 「ゆかりの名所・古跡・景勝 」

 「玉川公園は晩翠園と称し、丹羽村の中央に在り、小金山は背後に峻立し、南方は一面の田畑にして利別川は東西に流れ、遊楽部岳及び太櫓岳は遠く雲際に聳え、地籍7万4千88坪を有し......」と丹羽五郎が著述の「我が丹羽村の経営」の中で述べられている。
丹羽五郎が玉川公園を「晩翠園」と雅号を付した「晩翠」の2文字には「冬枯れの時、なお草木の緑色である」と言った意のみばかりでなく、五郎が理想郷丹羽村建設と言った壮大な夢や将来ビジョンに賭ける想い、情念が込められていたのである。
 往時は玉川神社のほか、神楽田、観望楼、競馬場、相撲土俵があり樹緑、緑草は見事であったといわれている。

【由緒】
昭和16年(1941)8月28日、丹羽村建村50年祭を施行するとともに、丹羽村開拓の祖「丹羽五郎翁頌徳碑」を建立し除幕式を挙行した。

所在地 玉川公園
題額 正3位勲1等功5級子爵 松平保男閣下
謹撰 前帝室編集官従7位勲8等 佐藤威悳
敬書 勲7等 大関栄作
刻字 陸前井内 阿部勇之丞

【由緒】
丹羽開拓の祖、丹羽五郎の徳を偲び、丹羽五郎頌徳碑と共に永くその徳を讃えるために、丹羽開基70周年を記念して建立した。

所在地 玉川公園
題字 北海道知事 町村金五
建立 昭和36年(1961)9月6日胸像建設除幕式挙行


【由緒】
会津藩士であった丹羽五郎は、飯盛山に散った少年隊士19名の霊を郷里の会津若松の地にあるが如く、祖先を祀る敬心から、大正13年(1924)7月、この地に白虎隊遥拝所を建立した。
なお隊士のうち、有賀織之助と永瀬勇二は丹羽五郎の従兄弟にあたる。

所在地 玉川公園
建立 現在地の遥拝所は昭和46年(1971)11月20日、丹羽開基80周年記念事業として修復工事したものである。

【由緒】
明治10年(1877)3月、東京高輪警察署詰であった丹羽五郎は警視庁巡査100名と共に西南の役に出征した。

参謀山形有朋命名の「警視抜刀隊」は警視隊の中から特に厳選された会津藩士族の多い精鋭部隊であった。
田原坂の戦いは、日本国内戦史でも例を見ない悲惨な戦いで、五郎率いる小隊100名のうち33名が戦死、50名が負傷するといった大きな犠牲を余儀なくされた。
このことから五郎は、西南の役で戦死した部下の忠魂を慰謝するため、33観音にちなみ部下名を刻し、後世の守護を希って1番から33番までの墓標を建立した。

所在地 玉川公園( 神社階段付近 )
題字 大正3年(1914)丹羽村創立35年祭記念事業として建立。昭和30年代に現在地の玉川神社階段両側に移設した。

【由緒】
玉川神社は明治25年(1892)3月29日、開拓地入植時の住居が定められたとき、丹羽五郎が信仰心の涵養こそが開拓を進めるうえで団結力の根拠となると考え、4月1日に敬神の観念を涵養するために小さい祠を作り標柱を設け「稲荷大明神」を祀り玉川神社と称したのが始まりで、当初は8月28日をもって秋季の祭礼と定めていたが、丹羽五郎が亡くなった後に9月6日に改め、幟をたて祝うことにしたのである。

やがて開拓が軌道にのり小金山に社殿を建て、神楽堂を設け丹羽家の出自とする「坂上刈田麿」を祀る青森県岩木神社に勧請し、神霊を奉斎すると共に「坂上田村麿」の神霊も合祀したものである。玉川神社のご神体として「丹羽五郎の愛剣」をも祀っている。例祭は、春季5月5日、秋季は丹羽五郎の命日でもあり、玉川小学校の開校記念日である9月6日となっている。

所在地 玉川公園

【由緒】
明治25年3月21日、丹羽村開拓の祖「丹羽五郎」が最初の開拓移民一行と共に開拓地に入ったときに、枝葉が繁茂して大傘を張ったような水松があり樹姿が見事なので樹下に荷物を下ろし、小屋掛けして露宿すること数日に及んだので、この樹を「荷卸の松」と命名して開拓の記念樹とした。

所在地 せたな町北檜山区西丹羽
樹種 いちい