荻野吟子をささえた人々
北条察源 行余書院で吟子が基礎的な学問を受ける。
松本万年 幕末の著名者 寺門静軒の創立した「両宜塾」を継承し、ここに入門した吟子を教育。後に東京師範学校の教鞭(きょうべん)を執(と)るかたわら「止敬学舎」を創立。
奥原晴湖 閨秀画家・国学者・漢方の医学者。吟子の嫁ぎ先稲村家の隠居所に、彰義隊の難を避けて仮寓 していた。後に吟子は、女医になろうとする決意の是非を相談。明治6年にはこの人に連絡をとり女医を目指して上京した。吟子の間借先などの世話をした。
松本萩江 松本万年の長女。父の創立した「止敬学舎」で教鞭を執る。明治8年、万年と共に東京師範学 校に招かれ教授となる。吟子とは両宜塾以来の親友。
田中かく 井上塾の同門生。吟子と終生交友関係を結ぶ。
井上頼圀 国学者・漢方医学者。井上塾の創立者。奥原晴湖の依頼により、上京した吟子の身柄を引き受ける。
内藤満寿子 甲府で内藤塾を経営、吟子を助教として招聘(しょうへい)。
巌本善治 明治女学校校長。吟子を同校の生理・衛生科目担当の講師兼校医として招聘。吟子 39歳
志方之善 キリスト教伝道者。27歳の時吟子と結婚。 北海道にキリスト教徒による理想郷建設計画を実現しようとして明治24年(1891)5月同志 丸山要次郎と2人で渡道しインマヌエルに入植、後に吟子の渡道も要請する。
明治36年(1903)9月から、同志社に再入学。
明治38年(1905)9月23日 病死
野口友子 吟子の姉。吟子の苦学時代、嫁ぎ先から絶えず蔭の仕送りを続け支援した。札幌で開業後、発病した吟子を熊谷の自宅に呼び寄せ転地療養をさせた。志方の死亡後、吟子に強く離道を要請、上京を決意させる。
永井久一郎 東京女史師範学校の教授。医学を修めたい吟子に 石黒忠悳(ただのり)を紹介。
石黒忠悳 軍医監・東京大学医学部総理心得。吟子の希望を入れ、 昵懇(じっこん)の宮内省侍医 医学士高階径徳(たかしなつねのり)を 説得彼が経営する医学校「好寿院」の入学を承諾させる。
太田昇平 医術開業試験前期試験に女性4人の受験者中ただ一人合格した吟子に、メキシコへ赴任留守中の夫人の指導を吟子に依頼、帰朝後も資金を援助した。
高島嘉右衛門 実業家。吟子の後援者。
高島徳右衛門 嘉右衛門の弟。吟子を愛娘はな子の家庭教師として迎える。
荒川八重子 旧姓阿部、止敬塾で吟子を知る。海軍兵学校の教官 荒川重平婦人となり、医術開業試験に向けて勉学中の吟子に住居の一部を提供する等して後援。

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