荻野吟子 渡道後の様子と瀬棚区で活躍

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〔渡道後の様子 1 〕
明治29年(1896)5月頃吟子渡道。イマヌエルの志方らの小屋に入る。

明治29年(1896)8月長万部村国縫に転出。

明治30年(1897)2月16日伝導に専念する志方を利別(今金)に残し、吟子は瀬棚会津町に移り医院を開業

〔瀬棚町での活躍 〕
医院を開業したが他に開業医もあり、あまり流行らなかったらしい。 従って、遠くへの冬の往診にも、苦労しながら出かけたようである。

村の有力者に呼びかけ「淑徳(しゅくとく)婦人会」を結成、自ら会長となって活動の先頭に立つ。会員には、村長夫人、鈴木夫人、警察署長夫人、山田夫人、森野小間物店夫人、田中呉服店夫人、堀田菓子舗夫人、事比羅神社宮司夫人、住職夫人等の名が見られ、おそらく市街の有力な婦人を結集したものと思われる。活動について詳細は記録が無いが、役場の二階で若い会員が集まり、女史から包帯の巻き方を教わったり、会員一同で東北地方不作のため、義捐金募集を行ったこともあるという。

瀬棚日曜学校創設、日曜学校では、女史の他に当時小学校の教師をしていたクリスチャン高林氏の夫人も子ども達に教えた。またイマヌエル教会の牧師、宇田川信道氏もしばしば姿を見せたと言われる。更に宣教師ローランドが、30年と33年に瀬棚を訪れており、女史の努力により、キリスト教がやや滲透(しんとう)していたようである。

〔渡道後の様子 2 〕
明治36年 志方の再入学後、札幌に転住、婦人科・小児科を開業。医業のかたわら外人宣教師に日本語を教え自分は英語の習得に努めた。この年の春、吟子は病気となり4月17日より熊谷の姉の家で転地療養。翌年7月 瀬棚に帰る。

明治38年(1905) 夫 志方之善 逝去(せいきょ)

明治41年(1908) 夫の死後、老境を自覚し姉の勧めに応じ離道。本所区新小梅町の閑静な住所に身を落ちつけた。吟子58歳

大正2年6月23日 逝去(せいきょ)。 63歳