荻野吟子 女医になるまでの苦難

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〔女医になるまでまでの苦難 〕
結婚後程なくして健康を害し、ひとまず実家で静養ということになり、離縁に至るのであるが、その病気は当時不治の病と言われた性病で、後に上京して順天堂病院で治療を受けることとなる。

この頃、我国の医学界では女医の制度がなく、吟子の治療に当ったのも男性の医師であった。 業病といわれた性病の治療を受ける際の、女性にとっては何ものにも耐え難い羞恥と屈辱が、同性の人々に自分と同じ思いをさせてはならないと、医師になることを強く決意させたのである。

吟子はこの希望を実現させるべく、学問を始めるのであるが、生来の利発さと、大きな目標に向かう強い意志とで、どこでも抜群の成績で修学している。しかし、学問は個人の力で如何様にも成し得るが、女医を認めないという制度や習慣の壁は、吟子の前に大きく立ちはだかり、目標達成に向かって邁進(まいしん)しようとする前途を苦難に満ちたものとするのである。
上京して井上塾に入門。東京師範学校卒業。

吟子の医師希望の強いことを知り、当時の医学界の有力者が2~3の医学校を紹介してくれたが、女人禁制ということで、いずれも断られた。しかし、更に努力の結果、私立医学校「好寿院」が受け入れてくれることとなった。ここで3年間の勉学を続けたのであるが、この間は家庭教師をしながらの、苦闘の3年間であった。

好寿院では女性ということで種々の困難があったようであるが、3年間の通学は、男子用の袴(はかま)に高下駄(たかげた)の男装であったという。

女医の道を拓く第一の難関は、医学校へ入ることであったのだが、苦学を続けながらも好寿院の課程を修了したのである。

好寿院を終えて第一の難関を突破したものの、次に待っていた第二の難関は、医師となるための開業試験に合格することであった。この試験に向けて、吟子は再三にわたり願書を提出したが、女性なるが故をもって全て却下されてしまった。

吟子はまたもや苦難の道を歩むことになるが、初志貫徹の意欲は堅く、最後の難関を乗り越えるべく涙ぐましい努力が続けられたのである。

兄弟たちは吟子の医学志望に最初から反対であった。それを押し切って、ここまできた以上、吟子にとっては今更諦(あきら)めることは到底出来得なかったのである。これこそ、新しい道を切り拓く者の歩まねばならぬ先人の通る苦難の道であった。

この頃のことを、吟子は「女学雑誌」354号にこのように書いている。
「・・・願書は再び呈して再び却下されたり。思うに余は生てより斯の如く窮せしことはあらざりき。 恐らくは今後もあらざるべし。時方に孟秋の暮つかた、籬落の菊花綾を布き、万朶の梢錦をまとうのとき、天寒く霜気瓦を圧すれども誰に向かってか衣の薄きを訴えん。満月秋風 独り悵然として高丘に上れば、烟は都下幾万の家ににぎはへども、予が為めに一飯を供するなし。 ...親戚朋友嘲罵は一度び予に向かって湧ぬ、進退是れ谷まり百術総て尽きぬ。肉落ち骨枯れて心神いよいよ激昂す。見ずや中流一岩の起つあるは却て是れ怒涛盤滑を捲かしむるのしろなるを。」

この文面から吟子の万策尽きた様子がうかがわれるのであるが、 しかし開業への思いは堅く、どうしても実現できないときには、最後の手段として、外国での資格取得も考えていたようである。 

医師開業に向けての吟子の決意には並々ならぬものがあったが、しかし、これの実現を見るには、吟子を支え励まし続けてくれた人々のあったことを 見逃すわけにはいかないだろう。そのように考えると、初婚に失敗はしたものの吟子は人間関係には恵まれた、幸運な人であったと思われるのである。

開業試験願を却下され窮地に陥っている吟子に同情した高島嘉右衛門は、井上頼圀に依頼して衛生局局長、長与専斎に紹介している。

吟子に依頼を受けた石黒忠悳(ただのり)も、責任があるので衛生局へ行き、局長に会って頼んだところ、女は困ると言われ、「女が医者になってはいけないという条文があるか。無い以上は受けさせて及第すれば開業させてもよいではないか。女がいけないのなら、『女は医者になる可らず』と書き入れておくべきだ」と喰いさがったそうである。

吟子も、好寿院に入る際、いろいろの書物を捜し、「令義解」という本に、日本でも古代から女医らしい者があったことを突きとめ、このことを強調したのであるが、高島嘉右衛門は、井上頼圀に依頼して、古代からの女医の史実を調査してもらい、この資料を添えて長与局長への紹介状を吟子に与えたのである。

吟子と支援者との熱意にうたれた長与局長の計らいで「学力がある以上は、開業試験を受けることを許可して差し支えない」ということになった。

このようにして前途が開け、明治17年9月の前期試験に受験し、女性受験者4名のうち、吟子がただ1人合格したのである。

そして、翌年3月には難関とされる後期試験にも見事合格したのであった。

女医第一号はこのようにして誕生したのであるが、開業当時は、「女に医者ができるか」と世間から酷
評を浴びたようである。

吟子女史の偉大さは、開業後の成功うんぬんよりも当時は女人禁制とされていた医学校に入学を認めさせると共に、開業試験への堅い拒否の扉を開かせ、日本医学界に女性進出の道を切り拓いた先駆者としての功績にある。

この偉大なる功績は我国医学界において永遠に燦然(さんぜん)と輝き続けるものである。又、偉大なる吟子女史が開業し、その傍(かたわ)ら婦人運動やキリスト教の布教などに活躍されたせたな町は、町民あげてこれを誇りとし、その業績を讃えるものである。