荻野吟子 渡道前の様子

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       出生の頃 | 勤勉の跡 | 入院生活 | 資格・職歴 | 

       日本最初の女医医院誕生 | 結婚暦 | 宗教 | 女性活動 |


〔出生の頃〕
吟子は、名主 荻野綾三郎の五女として出生。

荻野家は苗字帯刀を許され代々庄屋をつとめてきた家柄で長屋門があり、村人達から「長屋」と呼ばれていた。

俵瀬は利根川沿いの村で、氾濫の多い、いわゆる「水場」であった。

10歳の春に、江戸城桜田門外の変があり、世相が大きく変わり始めた時代。

〔勤勉の跡〕
吟子の父は子女の教育に熱心で、講師を招聘(しょうへい)したりしたが、 兄達は余り真剣でなかったのに対し、幼い吟子は、講義が始まるとその席に居り、話を聞いていた利発な子であったという。

大竜寺の寺子屋で、行余書院住職の北条察源より師事を受け、意欲的に学び、知識を飛躍的に向上させる。

行余書院で基礎教育を受けた後、両宜塾に入門、松本万年に師事する。漢学を修め、経史作家の書に通じ 学問の上達は早く才媛(さいえん)と賞賛された。

井上塾に入門、井上頼圀(よりくに)に師事。この頃から吟子の学才が光を放ち始め、東京の国学者間で評判になると共に上流社会に知名度が広がる。

松本萩江の勧めにより東京女子師範学校に入学。吟子25歳。同校卒業。

医学校「好寿院」に入学、医学を学ぶ。男尊女卑の偏見にもめげず、男子学生を凌(しのぐ)ぐ程の成績で医学を習得。明治15年(1882)抜群の成績で卒業。32歳

〔入院生活 〕

明治3年(1870) 性病治療のため、順天堂に入院。翌年退院
この時男性の医師より診療を受けた羞恥(しゅうち)で強く心が傷つき、女医を目指すことを決意する。


〔資格・職歴〕

明治7年 甲府の内藤塾の助教として赴く。明治8年同塾を退職

好寿院を卒業後、早速開業試験願書を何度も提出するが、女性ということで却下される。

明治17年(1884)医術開業試験前期試験に女性受験者4名中、吟子1人が合格

翌年3月、後期試験に合格 開業医の資格を取得。35歳

明治18年(1885)5月本郷湯島三組町に「産婦人科、荻野医院」を開業


〔日本最初の女医医院誕生〕

下駄をぬぐ場もない程繁盛し、手狭となり下谷西黒門町の二階建ての家に移転。弟子も多く有名人とも知己(ちき)が多く、吟子の一生の中で最も華やかな時代であった。

明治22年(1889)4月から明治女学校の生理・衛生科目担当の 講師兼校医となる。

明治25年(1892)明治女学校の舎監となり、下谷の医院をたたみ休業。

明治27年(1894)夫志方の渡道要請に応えるべく、 明治女学校の諸職を辞任する。


〔結婚暦〕
慶応4年(1868)  埼玉郡上川上村の名主稲村貫一郎の妻として嫁ぎ、周囲から玉の輿(こし)と羨(うらや)ましがられた。吟子18歳

結婚後、体調を崩すと共に性病を患って2年後に実家に帰され離婚となる。
順天堂に入院。

病気治癒、順天堂を退院後、稲村貫一郎より復縁の話があったが、女医志望の決意が固く断る。

井上塾で勉学中、妻が病死した井上頼圀の求婚を受けるが、甲府の内藤塾の助教を受けることに決意し甲府に赴(おもむ)く。

明治23年11月25日周囲の反対を押し切りキリスト教 伝道者志方之善(ゆきよし)(27歳)と結婚。吟子40歳

〔宗教〕

明治17年(1884)旧友古市静子に誘われ「新富座」 で開かれたキリスト教大演説会に同道し、強い感銘を受け、後に入信することになる。

明治19年(1886)本郷教会で海老名弾正牧師より洗礼を受け、キリスト教に入信。交友関係多くなる。 
キリスト教伝導者、志方之善に会い、キリスト教の理想について語り合い意気投合し、周囲の反対を押し切り結婚し、そのために後半の人生を大きく変えることとなる。


〔女性活動〕

明治19年(1886)12月 設立された東京婦人矯風会の風俗部長となり、婦人覚醒運動、婦人参政権運動、廃品運動、飲酒・喫煙の廃止運動等を開始。

明治23年、婦人矯風会は、国会開設の際に、婦人の議会傍聴が禁止とされることを知り自由党大成会に撤回を陳情し認めさせ、女性の議会傍聴が可能となった。

発起人13名で「婦人衛生会」を設立、幹事となり、翌年1月、「婦人衛生会雑誌」を創刊。