丹羽五郎の生涯

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 丹羽五郎の「生涯」

 丹羽五郎の父丹羽族(やから)は丹羽家の分家で禄高は100石、会津若松の花畑に屋敷があった、文久3年突然丹羽家当主の「丹羽勘解由」が京都の黒谷で病死のため、丹羽五郎は12歳で若くして丹羽本家の当主となり1000石を相続した。
 戊辰戦争で野尻代官を勤めていた父の丹羽族が自害し、伯父の入江庄兵衛、従兄弟の白虎隊士永瀬雄次、有賀織之助は自刃、丹羽一族から40余名の犠牲者を出している。
 会津若松城落城後、丹羽五郎一族は他の藩士同様に筆舌に尽くせないどん底の生活に追こまれた。

 明治5年(1872)20歳の丹羽五郎は「田村五郎」と変名して、当時人に最も嫌われる東京府の邏卒(警察官)となり、月給は2円50銭であった。
 明治10年には3等少警部として西南戦争に出征し激戦で有名な「田原坂の戦いの抜刀隊」に小隊長として参加した。
 この戦いで五郎の小隊は、100人の内、戦死者33人、負傷者50人、無傷の者は五郎を含め17名に過ぎなかった。

 彼は、薩摩閥が君臨する警視庁にあって、昼夜を問わず学問に精励して、警察練所を主席で卒業し、神田今川橋警察屯所配属になり、やがて神田和泉橋警察署長にまで栄進した。
しかし五郎には壮大な夢があり、曽祖父能教の移民による農業開拓の影響もあり、北海道の原始林に挑む「北海道開拓による理想郷建設」の夢実現のため20年にわたる警視庁の職を辞して、明治25年(1892)春渡道したのである。

 同志、大関栄作や丹羽弥助の協力を得て、人跡未踏の原始林と戦い、身の丈を越す熊笹を征服して、移民を叱咤激励し理想郷づくりに邁進したのである。
 その間五郎は、農事の改善を図り、品評会を開き、畜産を奨励し、協同組合活動にも力を注ぎ、私財を投じて村の基本財産を造成し、公共事業にも熱意を注ぎ、小学校や郵便局等の各種施設を完成させるなどして、遂に後志利別川流域に「理想郷丹羽村」を創出したのである。

(元北檜山町史 編集室編集長 宮本 正廣)